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「海賊とよばれた男 (下)」百田尚樹

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今回ご紹介するのは「海賊とよばれた男 (下)」(著:百田尚樹)です。

-----内容-----
当代一のストーリーテラーが放つ歴史ドキュメント小説の傑作!
敵は七人の魔女(セブン・シスターズ)、待ち構えるのは、英国海軍。
ホルムズ海峡封鎖を突破せよ!
第10回本屋大賞受賞作。

-----感想-----
※「海賊とよばれた男 (上)」の感想記事をご覧になる方はこちらをどうぞ。

「第三章 白秋 昭和二十二年~昭和二十八年」
昭和22年11月、国岡商店はついに石油販売業務を再開します。
この年、生死不明だった末弟の正明が満州から帰国します。
満州に攻め込んだソ連軍に捕まって二年近く収容所に入っていて、哀れなほど痩せすっかり弱り切っていたとありました。
ソ連に捕まると「シベリア抑留」のような恐ろしい仕打ちもあるので、よく生きて帰ってこられたと思います。
正明は帰国後は国岡商店の社員になります。

昭和23年8月、アメリカの石油会社「カルテックス」日本支社が国岡商店と提携したいと言ってきます。
石油配給公団からわずかな石油しか配給されず、売る油が足りない国岡商店にとって「我が社と提携すれば石油はいくらでも入れる」という提携の誘いはとても魅力的でした。
そしてカルテックスにとっても国岡商店の圧倒的な販売力は魅力でした。
しかしカルテックスは業務提携ではなく株式の譲渡を要求し、国岡商店の役員にカルテックスの人間を送り込んで子会社化しようとしたため、鐡造が激怒して交渉は決裂します。
カルテックスは代わりに最大手の日邦石油と提携します。
鐡造はその提携の条件を見て呆れた。何と、日邦石油は株式の50パーセントをカルテックスに委ねていたからだ。これほど屈辱的な提携があるだろうか。おそらく経営陣には多数のアメリカ人が乗り込んでくることだろう。
そして鐡造は国岡商店創業以来長く親会社だった日邦石油が外油に乗っ取られてしまったことを悲しみます。

9月、GHQが「石油配給公団を翌年3月末までに解散し、4月から民間の石油元売会社が石油製品の輸入および販売を行うように」と指示を出し、民間の石油元売会社が石油製品を輸入して販売できるようになります。
ただし元売会社の条件に「石油タンクを持っていること」とありました。
今の国岡商店には石油タンクがなく、公団の解散から逆算するとあと三ヶ月のうちにタンクを手に入れる必要がありました。
この時鐡造が「三ヶ月でタンクを手に入れることは、不可能だ」と初めて弱気な姿を見せ、重役達は驚きます。
重役になった東雲が「店主、希望は捨ててはいけません」と言うと鐡造は弱々しい笑みを浮かべ「いや、今度ばかりは無理だ」と言います。
すると東雲が凄く印象的なことを言います。
「店主がそんな弱気なことを言えば、長谷川さんに怒られますよ」
鐡造はかつて長谷川を後継者にしようと思っていましたが太平洋戦争(大東亜戦争)で帰らぬ人となりました。
私は東雲の言葉を見て、東雲は第一章で鐡造が「国岡商店の次代を担う男にしたい」と言っていたとおりの存在になったと思いました。
鐡造は東雲の言葉で目を覚まし何としてもタンクを手に入れようと決意を新たにします。

やがて旧三井物産のタンクが公開入札になるチャンスを見つけます。
しかし確実に競り落とすには資金が4千万円は必要で、鐡造はふと東京銀行に行ってみようと思います。
旧知の仲の営業部長の太田に「大江清常務に会ってみてはどうか」と勧められ、大江に会い4千万円の融資の相談をすると、何と大江はあっさり承諾してくれてこれには鐡造も驚きます。
大江は二年前、門司支店に出張に行った時に佐世保の旧海軍のタンク底で働く国岡商店の社員達の姿を見て衝撃を受けてました。
このような若者たちがいるかぎり、日本は必ず立ち直れると確信した。
銀行はこういう男たちがいる会社こそ援助しなくてはならないのではないかー。
その時のことがあり、鐡造が融資の相談に来たと知った瞬間に額がどれだけになろうと融資をしようと決めたとありました。
第二章では銀行の融資担当者や重役が鐡造の人間性に感銘を受けて助けてくれることが何度もあったのですが、今回は国岡商店の社員達の働きぶりが大江の心を動かしていました。
圧倒的な人間性を持つ鐡造の元に集う社員達の働きぶりもまた素晴らしいです。
融資を得て参加した入札で、国岡商店は14基のタンクを手に入れます。

昭和24年、石油配給公団の解散準備委員会が開かれますが、GHQがスタンバック、カルテックス、シェルの外油三社の代表を参加させろと要請してきます。
外油三社の代表は「元売会社の資格要件」を出してきて、その要件の一つに「将来、輸入販売について外油社と提携を有するもの」とありました。
外油との提携は日邦石油が会社を乗っ取られたように、ただの業務提携ではなく株式を譲渡して子会社になるということです。
また「元売会社の資格要件」には明らかに国岡商店を除外するために作った項目もあり、東雲は日本のために懸命に戦っている国岡商店を外油と手を結んだ同胞達が寄ってたかって潰そうとしていることに憤ります。
国岡商店以外の日本の石油会社は自分達の会社が儲かるためなら日本の石油産業が外油に支配されても構わないと言っているのと同じで酷いと思います。

しかし3月の初めに再び開かれた解散準備委員会にて、商工省石油課長の人見孝が反対してくれます。
人見は、外油の出した「資格要件」は外油が日本の石油業界を支配しようという意図を持っていることを見抜いていた。そしてこれは何としても阻止しなければならないと考えていた。石油は日本の復興になくてはならないものである。そのもっとも重要な物資を外国資本に握られてしまえば、日本に真の復興はない。
人見も鐡造と同じように日本全体のことを考えていました。
人見の反対によって外国三社が出してきた「元売会社の資格要件」は取り下げられます。
鐡造は人見のことを次のように言います。
「たとえ九十九人の馬鹿がいても、正義を貫く男がひとりいれば、けっして間違った世の中にはならない。そういう男がひとりもいなくなったときこそ、日本は終わる」
これを見て、もし商工省に人見がいなければ腐敗した人達によって石油業界は完全に外国資本に支配されていたと思いました。

ついに国岡商店が元売会社の一つに指定されます。
翌日、国岡商店と同じく元売会社に指定されたスタンバックの重役のダニエル・コッドが国岡館を訪ねて祝福してくれます。
コッドは第一章、第二章にも登場していて、最初は鐡造を敵視していましたが途中から人間性を認めていました。
「これからは同じリングで相見(あいまみ)える者同士となったが、互いにベストを尽くして戦おう」と言っていて、この人も立派だと思いました。

昭和24年3月31日、石油配給公団が解散します。
国岡商店は圧倒的な販売力を見せ、焦った外油は日本の石油会社との提携を急ぎ、日本の大手石油会社は子会社にされるのと同然の提携を結びました。
そして日本の石油会社を呑み込んだ外油は国岡商店に対して総攻撃を仕掛けてくるに違いなく、鐡造は外油の包囲網をいかにして打ち破るかを考えます。
外油の中でも巨大な石油会社は「メジャー」と呼ばれ、特に次の七つのメジャーは「セブン・シスターズ(七人の魔女)」と呼ばれ戦後長きに渡り世界の石油を支配します。

スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー
ロイヤル・ダッチ・シェル
アングロ・ペルシャ(アングロ・イラニアン)
スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク
スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア
ガルフ
テキサコ

鐡造が外油の包囲網を打ち破るために求めた力はタンカーを造ることでした。
しかしタンカーの建造計画を握る経済安定本部(後の経済企画庁)がタンカー建造を認めてくれず鐡造は焦ります。

この頃、長男の昭一が大学受験に続けて失敗して浪人生活を送っていました。
鐡造は半分は国岡商店を立て直すために奔走し家族に目を向ける余裕のなかった自分のせいだと思います。
鐡造は思い切って昭一をアメリカに留学させます。
アメリカは憎い敵ではあるが、すぐれたところもある。
昭一に「アメリカの素晴らしいところを学んできてもらいたい」と言っていて、憎くても優れたところがあるのを認められるのも鐡造の器の大きいところです。

資源庁が鐡造の主張を支持し、運輸省海運局と経済安定本部長官に宛ててタンカーを追加造船する要望書を出してくれます。
これにより二隻のタンカーが建造されることが決定しますが、一つはタンカー業界大手の飯野海運に決まります。
残り一隻のタンカーを何としても手にしたい鐡造は正明とともに経済安定本部金融局の財政金融局長、内田常雄を訪ねます。
そして鐡造は国際石油カルテルによる日本経済支配と戦う決意を語ります。
鐡造の思いが通じ、国岡商店がタンカーを持つことに決まります。

再び東雲が鐡造の後継者だと感じる場面がありました。
国際石油カルテルの国岡商店を潰すための策謀に鐡造よりも先に気づきます。
策謀によってアメリカから重油を輸入すると赤字になるのが確実なため、東雲は鐡造に輸入を中止しましょうと言います。
すると鐡造が凄いことを言います。
「戦後、国岡商店は廃油を浚うためにタンク底に潜った。この過酷なる事業で国岡商店は多大なる赤字を出したが、これによりGHQから日本政府に石油が供給された。つまりわれわれは日本のために役立ったのだ」
「われわれはもう一度タンク底に戻るべきではないかと思う。日本は今、重油を必要としている。そのために国岡商店は立つ。利益は考える必要はない」
東雲は鐡造の器の大きさに胸が熱くなります。
国際石油カルテルの策謀で赤字になるのが分かっていても、日本が重油が足りなくて困っているのだから輸入するというのは凄い決断だと思います。
ただの商売人には絶対できない決断です。
しかしこの輸入で赤字が出て、国岡商店は国内外合わせて13社もの敵に斬りかかられながら何とか耐えています。
日本のために尽くしている会社がそうではない会社達に寄ってたかって斬りかかられるのは酷いです。

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本の主権が承認されます。
そして12月22日、ついにタンカー「日章丸」二代目が完成します。

昭和27年1月、常務になった武知は部下の宇佐美課長とともに日章丸に積み込む重油と軽油を買い付けにアメリカに行きます。
サンフランシスコ港に到着した日章丸の船上では航海の成功を祝うパーティーが開かれ、当時世界最大の銀行だったバンク・オブ・アメリカ(BOA)の極東担当部長のハリー・クィネルと、国岡商店の代表者として出席していた正明が出会います。
クィネルは国岡商店に好意を持っていて融資の相談にも乗ると言っていました。
石油業界では国内外の会社が寄ってたかって国岡商店を潰そうとしていますが銀行の人からは好意を持たれることが多いのがとても印象的です。
石油利権に染まっていない人は国岡商店の行いをきちんと見てくれているのだと思います。

昭和27年5月、日章丸がロスアンジェルスに着き、武知と宇佐美が用意していたガソリンを持ち帰ります。
武知は日本に進出しているメジャーの目を逃れ、現地で独立系のサンオイルという小さな石油会社との契約に成功していました。
日章丸が持ち帰ったガソリンを鐡造は「アポロ」と名付けて全国の国岡商店の営業所で驚くほどの低価格で販売します。
アポロガソリンは日本国内で売られていたガソリンとは性能がまるで違い消費者を驚かせ、飛ぶように売れて国岡商店は飛ぶ鳥を落とす勢いになります。
しかしメジャーがサンオイルに圧力をかけ、突然「商談を取り止めたい」という電報がきます。
「アメリカでメジャーに逆らって生き延びる道はない。」とあり恐ろしいなと思いました。
武知と宇佐美はすぐにヒューストンにある小さな石油会社と新たに契約を結びます。
しかしヒューストンにもメジャーの手が回り、鐡造はメジャーの包囲網を突破するには尋常の手段では無理だと悟ります。

昭和27年3月、正明はブリヂストンタイヤの社長、石橋正二郎(しょうじろう)から家に来てくれないかと電話を受けます。
正明が石橋の家に行くとモルテザ・ホスロブシャヒというイラン人がいて、イランの石油を買わないかと言ってきます。
イランの油田は1900年代初めにイギリスが開発し、長年に渡ってイギリスの国策会社アングロ・イラニアン(現ブリティッシュ・ペトロリウム=BP)のものでした。
しかし1951年、イランは石油国有化法案を国民議会で通過させ、アングロ・イラニアンの全施設を接収します。
イギリスはこれを認めず、軍艦をペルシャ湾に出動させ威嚇します。
イギリス政府は「イランの石油はイギリスのものである」と宣言し、国際司法裁判所に提訴し、さらに世界の国に対して「イランの石油を買わないように」と警告を発していました。

正明は一度鐡造にイランの石油を買うかどうか相談しますが当初はイランがイギリスの油田を盗んだと考えていたため買わないことにしました。
ただし昭和27年4月にアメリカがイランと技術援助協定を結び、これはアメリカがイランの石油国有化を認めたのと同じことで、状況が変わります。
アメリカはこの機を利用して新たな原油資本を得ようとしていて、やることがせこいなと思います。
正明は鐡造に「ぼくらが知らされている情報は全部、イギリスからのもので、実情はかなり違うらしい」と言います。
鐡造は常務になった東雲にイランの国情と石油国有化の事件を調べさせます。

その結果、イギリスは石油1トン当たりの支払額がイランには他の中東諸国の三分の一前後しか払っていないことが明らかになります。
さらに第二次世界対戦で戦後の経済開発を約束してイランを連合国として参戦させましたがその約束も反故にしていました。
鐡造の「大英帝国のやりそうなことだな」は印象的でした。
「鬼畜米英」の「英」は伊達ではなかったのだなと思いました。

鐡造は日章丸が誕生しようとしていたまさにそのとき、はるか海のかなたでイランがアングロ・イラニアンの接収を開始したのは偶然ではないと思います。
ふと思い立って東京銀行に行ったら巨額の融資をしてもらえたことのように、鐡造の人生には運命の導きのようなことがよく起きます。
イギリスは世界各国に「イランと石油を取引する者に対しては、必要と思われるあらゆる措置をとる」と警告を発していて、民間船を武力で制圧するとも受け取れるため、どの国もイランから石油を買えずにいます。
この経済封鎖によってイランは危機的な状況になっています。

7月、鐡造の元をウィリウス・マホニーというアメリカ人が訪ねてきます。
マホニーはコンサルタント会社のメンバーで弁護士でもあり、一時はGHQの法務局員も務めていました。
マホニーは国際司法裁判所が「イランの石油はイギリスのものではない」とイランに有利な判決を下したと教えてくれます。
これを聞いて鐡造はこの機を逃してはならないと思います。
鐡造はマホニーのボスであるスタンダード・リサーチ・コンサルタントの社長、ポール・B・コフマンとも会い、イランの石油を買う決意を固めます。
イギリスが何をするか分からず危険ではないかと言う重役達に鐡造は言います。
「君たちはイランとの取引で、国岡商店の未来を心配しているようだが、これは未来を切り拓くための取引である。国岡商店は今、国際石油カルテルの包囲網の中でもがいている。彼らは配下におさめた日本の石油会社と手を結び、国岡商店をつぶそうとしている。このわれわれの状況はまさに、国際社会におけるイランと同じ状況である」
「イランの苦しみは、わが国岡商店の苦しみでもある。イラン国民は今、塗炭の苦しみに耐えながら、タンカーが来るのを一日千秋の思いで、祈るように待っている。これをおこなうのが日本人である。そして、わが国岡商店に課せられた使命である」

9月の終わり、鐡造は正明と武知をイランの首都テヘランに送り込むことを決めます。
これは一部の重役だけが知る超極秘事項です。

鐡造はイランから石油を運ぶために日章丸は使わず飯野海運からタンカーを借ります。
日章丸には莫大なお金がかかっていて、もしイギリスに拿捕されれば国岡商店は倒産してしまうからです。

11月、正明と武知が羽田空港から出発します。
テヘランに着いた二人は首相官邸でモサデク首相と会談します。
しかし石油購入を巡っての話し合いはなかなかまとまらず、次にハシビイという石油販売に関しての権限を持つ国会議員との交渉になります。
ハシビイは値段について無理難題を言っていて、さらに国岡商店のことを嘘をついたり誤魔化したりする会社という発言をしたため武知が激怒します。
「国岡商店は七年前、戦争に負けてすべてを失った。日本中に失業者が一千万人も出た中、店主は千人の店員をひとりも首を切らなかった。利益の追求を第一に考える会社がそんなことができるか!」
12月30日、ついに契約の草案ができます。
そして2月、正式に契約書に調印します。

その頃、飯野海運が突如タンカー「日南丸」のチャーターを断ってきます。
まさかの事態に鐡造は日章丸をイランのアバダン港に送ることを決断します。
日章丸が拿捕されれば国岡商店は倒産することになるが、日本人が信義を果たす国民であることをイランの国民は知るであろう。そして、このことは必ず両国の今後の友好関係にとって大きな力となる。
国岡商店が倒産した時の社員達の身の振り方も考えていて、国岡商店の社員の販売力は圧倒的なので、鐡造が石油業界に頭を下げて回れば新たな職を得ることができるとありました。
ただし国内外の石油会社から敵視されている鐡造に再就職の道はないため、東雲に「乞食になる」と言っていました。
すると東雲は真面目な顔で「そのときはお供いたします」と言っていて、私はこれを見て鐡造は良い後継者を持ったと思いました。

鐡造が日章丸船長の新田に「イランのアバダンに行ってもらいたい」と言うと新田は快諾してくれます。
新田は肝が据わっていて、鐡造が「今回の航海は今までの航海とは違い、万が一の時には船が沈むかも知れない」と言うと不敵に笑っていました。

3月23日、日章丸の出発の日を迎えます。
イランに行くのは極秘のため、新田と機関長の竹中幹次郎(みきじろう)以外の船員はサウジアラビアに行くと思っています。
見送りにきた船員の家族もそう思っているため、鐡造はそのことを心苦しく思っていました。

4月5日、日章丸がセイロン(現・スリランカ)の南、コロンボ沖に差し掛かった時、国岡商店から「アバダンに行け」の暗号文の無電が入ります。
この暗号が届いたらただちに行き先をイランに変えることになっていました。
新田が全員をキャビンに集め鐡造からあずかっていた手紙を読むと、緊張とともに船員達の士気が一気に上がります。

4月9日の昼過ぎ、日章丸はシャット・アル・アラブ河口に着きます。
河口を約三時間航行していくとアバダン港があり、新田達はアバダン製油所の物凄い光景を目にします。
タンクの数は無数とも言えるほどの数だった。これほど巨大な製油所はアメリカでも見たことがない。岸一面、まさしく見渡すかぎり、地平線のかなたまで製油所の施設が立ち並んでいる。世界一の製油所というのは嘘ではなかった。
私はここを読んでいて胸が高鳴りました。
河口を進んでいて目の前にこんな光景が見えてきたら圧倒されてワクワクした気持ちになると思います。

日章丸がアバダンに着いたというニュースは世界に衝撃を与えます。
鐡造は国岡館で記者会見を開きます。
記者達の多くは国岡商店に対して好意を抱いてくれていました。
鐡造の語った次の言葉は印象的でした。
「私は国岡商店のためにおこなったのではない。そんな小さなことのために、日章丸の五十五名の生命を賭けることはできない。このことが、必ずや日本の将来のためになると信じたからこそ、彼らをアバダンへ送ったのです」
鐡造は必ず目の前の損得よりも日本の将来を考えていて、一貫したこの信念は素晴らしいと思います。

日章丸にガソリンを積み終わると、船上でイラン国営石油会社の社長や重役、地元の有名人達を招いてパーティーが開かれます。
そして宴が終わり、イギリスが死に物狂いで追ってくることが予想される復路に向けて新田は気迫をみなぎらせます。

日章丸がアバダン港を出港して8日目の4月23日、新田と一等航海士の大塚が航路の話をしていて「イギリス領のシンガポール」とあったのは印象的でした。
この時点ではまだイギリスの植民地だったのかとしみじみとしました。
新田はイギリス軍の裏をかくために出口にシンガポールがあるマラッカ海峡は通らずに、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ります。

イギリスのアングロ・イラニアン社は激怒して訴訟代理人を日本に送り込んできていて、裁判は避けられない様相となります。
イギリスの狙いは裁判所に申請して日章丸からガソリンを陸揚げできないように仮処分を出してもらうことで、正明と武知は国際弁護士として活躍している柳井恒夫に相談して仮処分阻止に動きます。

5月9日、川崎沖に日章丸が姿を現します。
そこにはたくさんの報道陣や見物客、国岡商店の重役達、乗組員の家族、イラン政府の代表団が詰め掛けていました。

その頃、東京地裁では日章丸の石油仮処分の口頭弁論が行われ、国岡商店が有利になります。
また国民の大多数は国岡商店を応援していました。

そして5月27日、「仮処分申請を却下する」という判決が出て国岡商店は勝訴します。
さらにイラン政府はイギリスの威嚇に屈せず日章丸をイランに出港させた国岡商店の勇気に敬意を表し、国岡商店と破格の好条件でガソリン取引することを世界に向けて発表します。
国岡商店は半世紀以上に渡って世界を支配してきた国際石油カルテルの一角を見事に突き崩しました。


「第四章 玄冬 昭和二十八年~昭和四十九年」
昭和28年8月19日、イランでクーデターが起きてモサデク首相が解任される大事件が起きます。
クーデターはアメリカのCIAが仕掛けたものでした。
イギリスが秘密裏にアメリカと交渉し、アメリカがモサデク政権を打倒する代償にイラン石油の40%の利権を譲渡するという密約をしていました。

鐡造はイラン国営石油会社との契約は大丈夫なのか確認するために正明と武知をイランに行かせます。
9月の終わり、正明と武知がイラン国営石油会社を訪れるとバヤット社長は国岡商店との契約は心配ないと言ってくれます。
ところがアメリカが国際コンソーシアム(出資者連合)を作ってイラン国営石油会社を支配しようとして動き出します。
「セブン・シスターズ(七人の魔女)」に戦後急速に力を伸ばした「フランス石油会社(CFP)」が加わり、八つの頭を持つ「やまたの大蛇」のような国際的大石油会社が生まれます。
そしてイラン国営石油会社はこのコンソーシアムの子会社にされてしまいます。
さらにイラン国営石油会社は今までの契約を反故にして国岡商店が圧倒的に不利になる取引条件を通告してきます。

コンソーシアムによってイランとの取引を不可能にされた鐡造は危機感を持ちます。
もし国岡商店がつぶれれば、日本の石油市場は完全にメジャーに乗っ取られるだろう。今や近代国家にとって最大のエネルギーとなった石油を支配されることは、日本の産業界すべてが支配されることを意味する。そうなれば、日本が欧米に対抗することは永遠に不可能となるだろう。
国岡商店よりも日本の行く末を案じているところが鐡造らしいです。
鐡造の目にはメジャーに喰いつかれて危機的な日本の石油市場の姿が常に映っているのだと思います。

それでもイラン国営石油会社との一年半の取引で国岡商店は完全に甦っていました。
また「今や押しも押されもせぬ大企業となった国岡商店」という言葉を見て、国岡商店がとても大きな会社になったのを実感しました。
第三章までの国岡商店は第二章で勢いのあった時期を除けば常に劣勢に立たされていましたが、第四章は国内外の大石油会社と対等に戦う力を得た国岡商店の話なのだと思いました。

鐡造はメジャーに対抗するには原産国から直接原油を仕入れ、自社で精製して石油製品にして販売するしかないと考え、製油所の建設を急ぎます。
昭和30年10月、70歳になった鐡造はBOAに融資のお願いをするために武知を連れてアメリカに行きます。
そして副社長のジョージ・カランと会って話をすると何と1千万ドルもの融資をしてもらえます。
この時武知は次のように胸中で語っていました。
イラン国営石油会社をあのような汚い手口で乗っ取ってしまうメジャーもアメリカ人なら、BOAのように国岡商店の経営理念に多額の融資をするのもアメリカ人ということに、アメリカという国の持つ底知れぬスケールを見たような気がした。店主はそんなアメリカ人の気質を自分よりももっと早くわかっていたのだろう。息子をアメリカに学ばせたのも、おそらくはそのためだ。
これはアメリカ人は良くも悪くも利益を第一にし、さらに素晴らしいものは素直に素晴らしいと評価するということではと思います。
アメリカのメジャーにとって国岡商店は敵と知ってはいても、カランは国岡商店の経営理念を評価して多額の融資をしていました。

次に二人はピッツバーグに行き、セブン・シスターズの一つ「ガルフ」を訪れます。
ガルフはアジアに進出していなかったため国岡商店とは一度も競合したことのない会社でした。
ガルフはクウェートに油田を持っていて、鐡造はガルフからクウェートの原油を輸入することを考えていて、アジアに進出していないガルフにとっても国岡商店とのビジネスは大歓迎でした。

次に二人はシカゴに行き、石油精製工場の開発会社である「ユニバーサル・オイル・プロダクト・コーポレーション(UOP)」を訪れて山口県の徳山に精製工場の建設を依頼します。
鐡造は精製工場にこだわりがあり、次のように言っていました。
「徳山は瀬戸内海に面した美しいところです。この美しい光景は住民たちのものであるべきです。いや、日本の国民の共通の財産です。ですから、この街に精製工場を作るときは、無味乾燥な冷たい工場ではなく、見た目も美しい工場にしたい」
このこだわりは素晴らしいと思いました。
UOPのベネマ社長も共感して「世界で最も美しい製油所を作る」と言ってくれます。

昭和31年3月、起工式を済ませると鐡造は東雲を建設本部長に任命します。
鐡造は何と通常は三年かかる工事を5月に着工してから10ヶ月で完成させろと言います。
なぜか工事を急ぐ鐡造を見て東雲は、鐡造が自身が亡き後のことを考えていて、製油所があれば国岡商店はやっていけると思っているのではと思い、工場の早期完成を決意します。

工事では山陽本線沿いに長い緑地帯を作り、樹木や花を植えて市民が散歩できるように遊歩道を作ったとありました。
私は山陽に住んでいたことがあるのでこの工場は見てみたかったと思いました。

そして昭和32年3月、何と本当に10ヶ月で製油所が完成します。
鐡造がなぜ工事を急いでいたのかの真の理由も明らかになります。
今や押しも押されもせぬ大企業になっても鐡造は常に挑戦者の気持ちを持っているのがよく分かりました。
鐡造は工事に携わった国岡商店の社員と下請けの労働者達の働きを労いながら東雲に次のように言います。
「これが日本人の力だ。こういう日本人がいるかぎり、日本は必ず復興する。いつの日か、もう一度、欧米と肩を並べる国になる日が来る。いや、その日はもう遠くない」

製油所を工事中の昭和31年8月、ガルフとの間に正式に契約を結びます。
これまでセブン・シスターズと提携した日本の石油会社が株式のかなりを譲渡させられたり経営陣に乗り込まれたりという屈辱的な契約だったのに対し、国岡商店は株式も経営権もいっさい口出しさせない対等な契約を結んでいてそこが大きな違いでした。

徳山製油所には徳山港の海が浅くて大型のタンカーが接岸できないという欠点があるため、鐡造は資材課長の重森俊雄に「大型のタンカーが入れるようにしろ」と命じます。
重森は沖に停泊しているタンカーの原油を海底パイプで製油所に送り込む「シー・バース方式」という方法を見出し、海底パイプを施設する工事を行います。
昭和33年は原油輸入、石油製品生産、そして販売の三部門を手にした国岡商店がいよいよ本格的に動き始めた年でもあったとありました。
ここから国岡商店はどんどん業績を伸ばします。

昭和36年、好景気に支えられ石油の需要が増え続け、徳山製油所をフル稼働しても需要を賄いきれないため、鐡造は東洋最大の製油所建設を計画し、千葉県の姉崎(あねがさき)海岸に徳山製油所の6倍以上の広大な土地を取得します。
また徳山に一大石油化学コンビナートを作る計画も立てていました。
次々と新しい構想とアイデアを生み出し、それを実行に移していく鐡造を、優秀な重役たちがサポートした。中でも、武知、正明、東雲の三人は、同業他社の者たちからその凄腕を怖れられた存在だった。いずれも他社にいれば素晴らしい経営トップになれたであろうと言われていた。
私はついに国岡商店がここまで凄い存在になったのかと嬉しくなりました。

昭和36年9月、国岡商店は東銀座から丸の内に本社を移転します。
会社があまりに大きくなったため、もはや国岡館では機能が果たせなくなっていました。

11月、国岡商店は50周年を迎え式典を開きます。
しかしその直後、日田重太郎の病が重いという知らせが届きます。
戦後、日田は自由が丘にある鐡造が用意した家で息子夫婦と暮らして87歳になっていました。
日田の生活費や彼の身の回りの世話をするお手伝いさんの給料も全て鐡造が払い、さらに日田のために軽井沢に別荘も作ったとあり、鐡造がいかに日田に大恩を感じているかが分かりました。
昭和37年2月、日田が亡くなります。
死の間際、故郷の淡路に帰りたいと言っていた日田のために鐡造は葬儀を淡路島で国岡商店の社葬として執り行います。
鐡造の弔辞は美しく悲しく、鐡造と日田が麗らかな春の日差しを受けて歩いている場面が浮かんできて、読んでいて涙が出ました。

日田の葬儀から間もなく、政府が「石油業法」という法律を成立させます。
この法律は自由貿易に歯止めをかけ、石油業界を統制して生産調整をしようというもので、明らかに国岡商店を抑え込むためのものでした。
鐡造はこの法律はいずれ「消費者不在」「官僚の統制」につながると見て反対を表明しますが他の多くの石油会社は国岡商店を抑え込めることから賛成します。
しかし鐡造は珍しくあっさり引き下がっていて、東雲はなぜ徹底抗戦しないのか気にしていました。
鐡造はこの頃、引退を考えていました。

昭和37年の暮れ、日本を異常寒波が襲い全国的に灯油が足りなくなり、さらに跳ね上がる電力需要に火力発電所の重油が不足する事態が起こります。
ところが「石油業法」があるために国岡商店の徳山製油所のタンクには有り余るほどの原油があるのにそれを製品にして販売することができませんでした。
石油業法による生産調整の失敗は誰の目にも明らかでしたが政府と石油連盟は生産調整を続けようとします。
この事態を見て鐡造は消費者のために立つことを決意します。
これが生涯最後の戦いになるだろうとありました。

石油連盟も通産省も国岡商店に対して生産調整の協定に従うように言ってきて鐡造と重役達は激怒します。
鐡造は石油連盟脱退を決断し、記者会見で堂々と語ります。
「われわれは何も怖れていない。生産調整は間違っている。国岡商店は、常に消費者の立場に立って、正しく行動しているのであるから、なんら疚しいことも恥じることもない」
「政府の石油業界に対する干渉はあまりに強すぎる。消費者の立場を完全に忘れ、供給制限をやるのは間違いである。まして輸入自由化に逆行する統制強化は時代錯誤も甚だしい」

国岡商店の徹底抗戦によって、ついに福田一通産大臣が「生産調整をできるだけ早いうちに廃止し、石油市場を自由化して消費者の立場も尊重する」と発言します。
昭和41年8月、ついに生産調整が廃止されます。
「「統制の時代」が、この日をもって幕を閉じた。」とあり、市場経済の下で石油を自由に販売できるようになりました。

昭和41年9月、鐡造は国岡商店の本社を日比谷の国際ビルに移し、その翌日に正明を社長に、東雲を副社長に任命します。
鐡造は隠居するつもりでしたが正明に「社長を辞めても、店主は辞めることはできません」と言われ会長になります。

昭和43年5月、71歳になっていた専務の武知が引退します。
物語の終盤は大きな戦いもなくゆったりとした気持ちで読めました。

鐡造は「会長」という肩書が嫌なため、会社の定款に「当会社は創始者国岡鐡造を店主と称する」という一文を入れ、正式に「店主」になります。
昭和46年、国岡商店は創業60周年の式典を開きます。
鐡造は86歳になっていましたがまだまだ矍鑠(かくしゃく)としていました。
昭和47年、72歳の正明が社長を退き63歳の東雲が新社長になります。
鐡造は重役達の顔を見渡し、どの顔もたくましい顔つきをしているのを頼もしく思います。
自分が死んでも、この男たちがいるかぎり国岡商店は大丈夫だろう。
最後の「終章」で鐡造は95年の生涯を閉じます。


ドキュメンタリー小説の良さは、かつて日本にはこんなに偉大な人がいたというのを小説で後世に語り継げることだと思います。
私は鐡造の生涯を無理とは思いますが大河ドラマで見たいと思いました。
明治、大正、昭和を生き、小さな商店での勤務から始まり、独立して国岡商店を開き、幾度もの苦難に見舞われながら、やがて押しも押されもせぬ大企業になる生涯はとても面白かったです。
大河で見たいと思わせてくれるような偉大な人物の生涯を描いた作品を読むことができて良かったです。


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