今回ご紹介するのは「錦繍(きんしゅう)」(著:宮本輝)です。
-----内容-----
「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」
運命的な事件ゆえ愛し合いながらも離婚した二人が、紅葉に染まる蔵王で十年の歳月を隔て再会した。
そして、女は男に宛てて一通の手紙を書き綴る――。
往復書簡が、それぞれの孤独を生きてきた男女の過去を埋め織りなす、愛と再生のロマン。
-----感想-----
この作品は2004年に読んだことがあります。
2004年は綿矢りささんの「蹴りたい背中」(2004年第130回芥川賞受賞)を読んで読書が好きになった年で、宮本輝さんが当時の芥川賞選考委員だったことから「錦繍」に興味を持ち読みました。
先日三浦しをんさんの「ののはな通信」を読んでいて同じ書簡小説の「錦繍」が思い浮かび久しぶりに読んでみました。
三浦しをんさんが直木賞系の書簡小説なのに対し宮本輝さんは芥川賞系の書簡小説です。
小説の冒頭、勝沼亜紀からの最初の手紙が38ページも続いていました。
私もブログで長文を書くことはありますが、手紙でそんなに長いのを書くのは凄いと思います。
手紙は亜紀が山形県の蔵王のダリア園からドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で有馬靖明という男に再会して驚いたという内容で始まります。
靖明はかつての夫で10年ぶりに再会しました。
亜紀は35歳、靖明は37歳になっています。
亜紀は再会した時の靖明の様子を見て、靖明が平安な日々を過ごしていないのを直感します。
再会した時に紅葉している描写があったので季節は秋と分かりました。
紅葉の描写は次のようにありました。
全山が紅葉しているのではなく、常緑樹や茶色の葉や、銀杏に似た金色の葉に混じって、真紅の繁みが断続的にゴンドラの両脇に流れ去って行くのでした。それゆえに、朱(あか)い葉はいっそう燃えたっているように思えました。何万種もの無尽の色彩の隙間から、ふわりふわりと大きな炎が噴きあがっているような思いに包まれて、私は声もなく、ただ黙って鬱蒼とした樹木の配色に見入っておりました。
これは凄く良い表現で、秋のいくつもの色に彩られた山の様子が鮮やかに思い浮かびました。
自然の山の紅葉はもみじの赤、銀杏の黄色の他に常緑樹の緑、ブナやナラの木などの茶色~金色もありとても色鮮やかです。
10年前、靖明が京都の嵐山の旅館で寝ている時に襲われる無理心中事件に遭い、相手の女性は亡くなりましたが靖明は助かりました。
女性は瀬尾由加子と言い、祗園のアルルというクラブのホステスでした。
亜紀の父の星島照孝は大阪の淀屋橋にある星島建設という建設会社の社長で、靖明はその会社の課長をしていて、照孝はいずれ娘婿の靖明を後継者にしたいと考えていました。
しかし靖明の由加子との浮気と無理心中事件は妻のある建設会社の課長のスキャンダルとして報道され世間に知れ渡ります。
照孝は自身の後継者としての靖明を「競走馬に譬(たと)えたら、ぽきんとまっぷたつに前脚を折った、そんな状態やな」と言っていて、これは再起不能ということだと思いました。
靖明は星島建設を辞め亜紀とも離婚します。
靖明と由加子は舞鶴の中学校で4ヶ月一緒に学んでいたことがあります。
亜紀は靖明と由加子には行きずりの男女の浮気とは違う強い愛情が存在していたのではと思います。
亜紀は勝沼壮一郎という父の勧める大学助教授と再婚します。
勝沼との間に清高という8歳の子供がいますが先天性の脳性マヒによる知的障害があります。
亜紀は障害を持つ子供をもたらしたのは靖明のせいだと八つ当りのように思っていた時期がありました。
冒頭の亜紀の手紙の最後には返事をもらうための手紙ではないとあり、これは自身の気を済ますための手紙ということだと思います。
そのように思うことはあると思います。
靖明から返事が来て由加子とのことを語ります。
両親を亡くした靖明は中学校生活にも自身を引き取ってくれた緒方夫婦という舞鶴に住む母方の親戚との生活にも馴染めない中、同じクラスの由加子のことが好きになります。
しかし程なくして大阪に住む父の兄(伯父)が靖明を引き取りに来ます。
大阪に帰れるのは靖明にとっても嬉しいことでしたが、即座に同意するのは緒方夫妻に申し訳ないと考えてしばらく考えさせてくれと言っていて、中学二年生でこの気遣いができるのは偉いと思いました。
大学に入って三年目に靖明はキャンパスにいた亜紀に一目惚れします。
亜紀と結婚し星島建設に入社して一年経った頃、靖明は仕事で訪れた京都の河原町のデパートで店員として働く由加子に再会します。
由加子は以前から祗園のクラブでもアルバイトをしていて、間もなくそちらを本業にすると言います。
靖明は1ヶ月後、得意先の接待で由加子の働くクラブアルルに行きます。
靖明の手紙はそこで終わり由加子との無理心中の詳細は書きたくないとありました。
1月16日に亜紀から手紙が来てから靖明が返事を出したのは3月6日で、2ヶ月近く経っています。
靖明の手紙も22ページもあり、突然の手紙に戸惑い返事を出すか出さないかで迷いながら長い手紙を書こうとすれば時間がかかると思います。
亜紀は由加子と再会してから無理心中されるまでのいきさつを知りたいと言います。
さらになぜ靖明は蔵王に行ったのか、今何をして生活しているかも言えと言っていてこれは余計なお世話な気がしました。
靖明は短い返事を出し、自身に由加子との顛末を書かねばならない義務はなく手紙もこれを最後にしたいと言います。
しかし亜紀は16ページの長い返事の手紙を出し、これはしつこいと思いましたが日付を見ると亜紀が返事を出したのは2ヶ月経ってからでした。
亜紀も手紙を出すか出さないか迷いながら書いたのかも知れないと思いました。
またこれだけ間隔が空くとこれを最後にしてと言っていた靖明も気持ちが変わって返事を書く気になるかも知れないと思いました。
亜紀の手紙には「いったいこの女はなぜこんなにもしつこく手紙を書いてくるのかと呆れ果てていらっしゃることでしょう。」とあり亜紀も自身がしつこいのを分かっていました。
しかし靖明に心の奥に潜んでいるものを知ってもらいたいという衝動に突き動かされているとあり、この気持ちが亜紀に手紙を書かせています。
亜紀が手紙でモーツァルトの音楽を語っている時に「妙なる調べ」という言葉が登場し、意味を調べてみたら「言葉で表せないほど素晴らしい」とありました。
そして女性の名前で「妙」や「妙子」とあるのはそういった意味が込められているのかも知れないと思いました。
亜紀は16ページの手紙の後に34ページもの手紙を続けて出し、そちらには恬淡(てんたん)という言葉が登場し意味を調べたら「欲が無く、物事に執着しないこと」とありました。
小説では普段聞かない言葉が登場することもあるので面白いです。
靖明と離婚した後亜紀は「モーツァルト」という名前の常にモーツァルトの音楽をかけている喫茶店によく行くようになっていましたが、ある日「モーツァルト」が火事になり全焼してしまいます。
亜紀は「モーツァルト」の御主人夫婦の家にお見舞金を持って行った時に御主人の甥に会い、その人が勝沼壮一郎でした。
やがて「モーツァルト」が再建されます。
照孝も「モーツァルト」に来るようになり、御主人と亜紀と勝沼のお見合いの話をしていました。
亜紀は勝沼との結婚を次のように書いていました。
あなたとの離婚が、ちょうど、別れたくもないのに、むりやり船に乗せられて岸壁を離れて行ったという状態であったとすれば、勝沼との結婚も、まったく同じように、行きたくもないのに、知らぬ間に船に乗ってしまったと言うのが、一番適当な表現ではないかと存じます。
さらに今でもなぜ勝沼と結婚したのか分からないと書いていてこの手紙を勝沼が見たら可哀想な気がしました。
もう手紙は書かないと言っていた靖明ですが二通の手紙を読んで返事を書くことにします。
靖明は10年間ゆっくり転げ落ちていきました。
靖明はいつも京都の嵐山(あらしやま)にある「清乃家(きよのや)」という旅館で由加子と会っていました。
ある日由加子が今夜は清乃家に行きたくないと言います。
大きな病院の経営者が由加子に店を持たせてやろうと3ヶ月前から口説き続けていることを知っていた靖明は、今日はあの男に付き合ってやるのかと嫌味なことを言います。
さらに清乃家で待っているからと言ってがちゃんと電話を切っていて、自身は家庭という安心な場所を持っているのにこれは酷いと思いました。
その日清乃家にやって来た由加子は無理心中事件を起こします。
瀕死になった靖明は死にかけている自身の姿をもうひとつの自身が見つめるという体験をします。
病院の手術室で手術を受けている自身の姿を少し離れた場所から見ていました。
それを「霊魂」とはせずに肉体から離れた自身の命そのものと表現しているのが印象的でした。
靖明は霊魂は信じていないとありました。
亜紀は返事の手紙に私達の手紙はいつか終わらなければならずそのことを私はよく承知していると書いていました。
これは心の思いを語り終わった時だと思いました。
靖明には現在、令子という27歳の一緒に暮らしている女性がいます。
靖明は10年間何をやっても上手く行かず借金取りにも追われ今は令子に養ってもらっています。
令子はスーパーマーケットでレジの仕事をしていますが独立して商売を始めようと考えていて、靖明に手伝ってくれと言います。
令子の考えた商売は美容院が客にサービスと宣伝を兼ねて渡す店のPR紙を作るというもので、一枚の紙を二つ折りにして四ページにして、二~四ページ目の作りは同じにして表紙のページに載せる店名や経営者の名前などをそれぞれの店のものに替えます。
さらにPR紙の内容が同じ地域の他の美容院と同じになるのを避けるため、一地域で契約する美容院は一店舗だけにします。
部数を何万部刷ることができれば一部あたり何円で作ってもらうことができ、さらに何件の得意先を得ることで儲けが出て商売になるかを綿密に計算していて熱意が凄いと思いました。
靖明は令子と別れたらもう明日から食べていくことが出来ないのですが、令子の口から別れたくないという言葉を聞きたくて二日連続で別れようと言っていて考えが酷いと思いました。
令子が可哀想です。
協力するのを嫌がっていた靖明ですが最後は協力することにしていて、そのくらいはやれと思いました。
亜紀はある日、勝沼が大学の自身のゼミの女子学生と浮気をしているのを悟ります。
私は勝沼との結婚のことを書いた亜紀の手紙について「この手紙を勝沼が見たら可哀想な気がしました。」と書きましたが、これを見て一気にその気持ちが消えました。
これは物事には二面性があり、どちらか片方の主張を聞いた時は相手の人は酷いなと思ったとしても、その相手の人の主張を聞いてみると実は最初に主張を聞いた人の方が真に酷い人だったという場合があるということです。
亜紀は勝沼への気持ちがとても覚めています。
勝沼も亜紀が気づいていることに気づき、二人ともなに食わぬ顔で夫婦を続けています。
令子のアパートに借金取りがやってきて、靖明はこれ以上は迷惑をかけられないと考えて今度は本心から別れようと言います。
しかし翌日の夜に靖明が電話をすると令子は再びやってきた借金取りに98万6千円払って靖明が発行した約束手形を取り戻していました。
さらに靖明に帰ってこいと言っていて令子の凄さと靖明の酷さが印象的な場面でした。
靖明は明日の昼過ぎには帰ると言います。
亜紀は自身は勘違いをしていたと語ります。
かつては憎しみに任せて清高の知的障害は靖明のせいだと思っていましたが、実際には自身という人間の業であり、さらにはそんな子の父とならねばならなかった勝沼壮一郎という人の業でもあったと言えはしないかとありました。
そして清高を不具なら不具のままに、出来うる限り正常な人に近づけるよう、何が何でも〈いま〉を懸命に真摯に生きるしかないと、清高を育てる決意を語ります。
亜紀が靖明に語った過去と現在と未来の考え方は興味深かったです。
〈いま〉のあなたの生き方が、未来のあなたを再び大きく変えることになるに違いありません。過去なんて、もうどうしようもない、過ぎ去った事柄にしか過ぎません。でも厳然と過去は生きていて、今日の自分を作っている。けれども、過去と未来のあいだに〈いま〉というものが介在していることを、私もあなたも、すっかり気がつかずにいたような気がしてなりません。
これはそのとおりで、過去の後悔と未来の心配ばかりをしていると現在が疎かになります。
この言葉は人から聞いたことがありますが、2004年の時点で一度読んでいたのかと思いました。
小説には時として人生の教訓になるような凄い言葉があります。
靖明は久しぶりに床屋に行こうと思った時に床屋用のPR紙も作ったら良いと思い付きます。
令子の商売に嫌々付き合っていた靖明が自身から商売を繁盛させるための策を思い付いていて、本気になって令子に協力することが予感されました。
照孝が亜紀に勝沼と結婚させたことを謝り、別れたかったら別れていいと言います。
亜紀の手紙には「心の綾」という表現があり、綾の意味を調べてみたら「物の表面に現れたさまざまな形や模様」とありました。
亜紀は勝沼と別れたいと言います。
今まで照孝の言いなりだった亜紀が初めて自身の希望を言っていて印象的な場面でした。
自身の人生がもう一度動き始めたように見えました。
2004年に読んだ時は古風に感じた内容が今回読んだら静かに胸に染み入ってきました。
情景は彩り豊かに思い浮かび、文章の古風さはあるのでどこか謹み深い気持ちにもなりました。
手紙の行き来だけでこんなに表現豊かな作品が作れるのは凄いと思います。
手紙は自身の心をそのまま写し出せる写真や鏡のように感じ、書く手間はかかっても電話で手早く伝えるよりも落ち着いて自身の心と向き合える分、違った趣きがあって良いと思います。
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