今回ご紹介するのは「野川」(著:長野まゆみ)です。
-----内容-----
両親の離婚により転校することになった音和。
野川の近くで、彼と父との二人暮らしがはじまる。
新しい中学校で新聞部に入った音和は、伝書鳩を育てる仲間たちと出逢う。
そこで変わり者の教師・河井の言葉に刺激された音和は、鳥の目で見た世界を意識するようになり……。
ほんとうに大切な風景は、自分でつくりだすものなんだ。
もし鳥の目で世界を見ることが、かなうなら…
伝書鳩を育てる少年たちの感動の物語。
-----感想-----
長野まゆみさんの作品は初めて読みました。
図書館で見かけて表紙ののどかな雰囲気に興味を引かれ読んでみました。
季節は秋の初めの9月で、冒頭で「野川」の名が登場し、表紙の川が野川だと分かります。
読み始めてすぐ文章表現が「緑だけがしたたる夏」、「小暗い(おぐらい)かげ」など普段見ないもので個性的だと思いました。
野川の辺りは武蔵野の緑と水の供給地とあり、さらに都心(新宿)から電車で30分のK市とあるので小金井市が舞台かなと思います。
ネットで調べてみると野川という川は一級河川として実在することが分かりました。
冒頭で国語の教師が「きょうはきみたちが毎日歩いている地面の話をしようか」と言い学校が建つ大地の話をします。
この学校は武蔵野大地と呼ばれる河岸段丘(かがんだんきゅう)の南斜面に建っていて、武蔵野大地は東京湾に向かって傾斜しながら上野の山で終わります。
これは知らなかったので興味深かったです。
国語教師は学校が建つ大地の話だけで一人で3ページも話していてその話しぶりがとても印象的でした。
さらに長い話を退屈と感じさせず興味を持たせたまま話し続けられるのも凄いと思います。
物語は誰かが井上音和(おとわ)のことを語る形の一人称で進んでいきます。
中学二年生の二学期に音和は転校してきました。
夏休みは両親の不仲、離婚、父の失業と波乱が次々と起こりました。
大荒れの心境で勉強が手につかないこともあり、音和は転校のおかげで夏休みの宿題をしなくてもいいことを幸いと思います。
すると河井という担任の国語教師が笑いながら「もうけたな」と言い、音和は河井に好印象を持ちます。
冒頭で話していた国語教師も河井です。
音和が父と住むアパートを出て200m歩くと野川があります。
野川の描写で「両岸の草むした羽口(はぐち)」という言葉があり、羽口も普段聞かない言葉なので調べてみたら「堤防の斜面」とありました。
ある朝音和が登校するために歩いていると、三年生の吉岡祐仁という男子が声をかけてきて新聞部に入らないかと言います。
音和が新聞部は新聞の発行をするのか、それとも新聞の研究をするのかと聞くと吉岡は「鳩を飼うんだ」と言い、それを見て私は新聞部に興味を持ちました。
なぜ新聞部なのに鳩なのかと思いました。
吉岡が関東ローム層を語っていたのは興味深かったです。
関東ローム層は粘土質で、中学校への道は関東ローム層がむき出しになっています。
保水力はありますが蒸発するのに時間がかかるため雨上がりは長い間ぬかるみになります。
部分日食の日の木漏れ日の話も興味深かったです。
普段地面に映る木漏れ日は丸い形をしていますが部分日食の日は三日月の形になるとありました。
日食の日は太陽に目が行きがちですが地面に映る木漏れ日も見てみたくなりました。
河井は28歳から30歳くらいで、一般的な「教師が文章の解説をして、たまに生徒に質問する」といった普通の授業はしない人です。
河井は話し始めると凄く長いのが印象的で、一人で3ページくらい話すことが何度かありました。
河井が印象的なことを言っていました。
私は自分の目で見なくても心にのこる風景が、この世にあるんだということを知った。
これはそう思います。
私は高校の修学旅行が沖縄で、修学旅行を前に沖縄戦を経験した高齢者を高校に招いて話を聞いたことがありました。
その時の話がとても臨場感があり、まるで映像を見ているかのように鮮明に様子が思い浮かびました。
夏休みにあった皆既日食の日、母親から離婚するので父と母のどちらと一緒に暮らすかを一週間で決めてくれと言われます。
きっと私と暮らすと確信している母親に反発した音和は父親と一緒に暮らすことを選びます。
音和は部活をどうするかで河井に呼ばれます。
そこで音和は新聞部が鳩を飼っているのを知ります。
新聞部の顧問は河井で、他に書道部、挿け花部、手芸部の顧問もしています。
河井が昔はハトが伝書鳩としてニュースを運んでいたと言っていて驚きました。
昔の新聞記者達は取材先で記事を書き、速やかに本社へ送る手段として鳩を使っていて、現在の携帯電話の代わりに数羽の鳩を持ち歩いていたとありました。
今から40年以上前まではどこの新聞社でも通信用に二百羽から三百羽の鳩を飼っていたとあり、伝書鳩がそんなに大活躍していたとは驚きました。
そしてそこからの40年で通信網は大幅に発達し、電話は昔は遠方だと1~2時間待たされることがよくあったのがすぐにつながるようになり、携帯電話も登場し外出先からすぐに電話ができるようになりました。
文明の発達の凄さを感じました。
音和は何部に入るかはサッカー部の練習に仮参加してみた具合で決めると答えます。
数日後、音和は再び河井に呼ばれます。
音和は鳩舎(きゅうしゃ、鳩小屋のこと)に行き見学させてもらいます。
淳也という一年生の部員がコマメという翔べない鳩を連れていて、コマメは音和を気に入ったようで淳也の肩から音和の腕に乗り移ります。
そこに河井が現れ、今日は鳩舎のベテランのソラマメとモモという鳩が通信員として取材班に同行していることを教えてくれます。
河井はさらに音和に新聞部の部長になってくれないかと頼みます。
音和はこの目で見てもいない光景が言葉一つで目に浮かぶような話を河井がもっと聞かせてくれるなら部長になっても良いと条件を出します。
河井が条件を引き受けたため音和も部長を引き受けますが新聞部の部長が書道部、挿け花部、手芸部の部長も兼任することを知らされます。
取材班としてS山という山に行っていた三年の吉岡と藤倉しのぶ、二年の山田が戻ってきます。
藤倉は淳也の姉で副部長で、コマメの訓練を音和に任せます。
藤倉はコマメが翔べないのは翔べないと思い込んでいるか、あきらめているからではと言います。
吉岡達はS山から帰ってくる途中に駅前通りでチラシ配りをしている男の人を見かけます。
男の人が配っていたのは家族の記念日写真を勧めるフォトスタジオの宣伝用チラシで、音和はそれが自身の父親だと気づきます。
映像の編集や画像処理の高度な技術を持っている父親が失業によって不仲の兄(音和の伯父)の経営するフォトスタジオで働かせてもらってチラシ配りをしていることに音和は心を痛めます。
そして音和は心の中に父親に味方する気持ちがあることに気づきます。
10月になります。
音和は吉岡に話があると言われ一緒に帰ります。
吉岡は踏切に行きある人がそこで命を絶ったことを話します。
電車が通過する時、かたわらの吉岡の髪は風に逆立ち、心なしか潤んだ目のなかを光がながれた。電車の窓のあかりだった。とあり、これは良い表現だと思いました。
また音和がうっかり今は家に父しかいないと言ってしまい気まずくなった時に吉岡は「云いたくないことは、だまっておけ」と言っていて格好良い人だと思いました。
ある雨の日の夜、音和は父親に思いを話します。
もっと高度な仕事ができるのにそれをさせずチラシ配りをさせているのは間違っていると伯父に抗議しようとしていました。
父親は優しく微笑み、兄に対しては音和が思っているよりずっとタフだから心配しなくても大丈夫だと言います。
身近になった父がありのままの姿を音和に示してくれたことで、音和は父への不満やわだかまりが融けていきます。
また音和は今までは人のことなど気にかけない生き方のほうが楽だと思いそう振る舞ってきましたが、河井や吉岡によって考えが変わってきます。
「一帯の地面がぬれているのは、近所のだれかが水まきをしたからではなく、崖のほうから自然に水がしみだしているのだ。」という描写があり、野川の近くの地域は湿地帯のようになっているのが分かりました。
東京にそんな湿地帯があるのは意外な気がしました。
部長になった音和が書いて鳩に運ばせた通信文を河井が誉めると音和は困惑します。
今まで誉められたことがなかったため河井の言葉を疑っていました。
「実はどの分野も、芸をきわめようとする者は、どう書くか、どう描くか、どう弾くか、において苦悩する。文章もおなじ。それはつまり、個人の資質を問われるということさ。この話をすると、だれもが書家や画家や音楽家になるわけではないから関係ない、と反論する者がいる。あるいは、それが受験にどう役立つのかときく。生徒ではなく、おもに親だ。そういうおとなのせいで、学校はどんどんつまらないところになる」
河井が音和に語ったこの言葉も印象的でした。
受験にどう役立つのかと聞く親は理論だけを見て「中学校では受験に役立つことだけ教えれば良い。それ以外はいらない」と考えているのだと思います。
その結果、学校の授業が無味乾燥になり面白味がなくなるのだと思います。
理論だけを重視して感性を養うことを軽視するのは長い目で見ると良くないと思います。
河井の言葉を聞いた音和は心を育てるという名目での体験学習にはうんざりしていたと言い、さらに次のように言います。
「田植えでも乳しぼりでも、ほんの一日の体験なんかじゃだめなんだ。そんなことより、五十年も六十年も田植えをしてきた人の話を聞いたほうがいい。その人が知っている土の匂いや手ざわりを教えてもらうほうがいい。牛の目の色や馬の耳のことを、ちゃんと語れる人の話を聞きたい」
これはそのとおりだと思います。
再び修学旅行の前に沖縄戦の体験者の話を聞いた時のことを思い出しました。
11月になり音和は藤倉しのぶから吉岡の兄が受験に失敗したのを苦に自殺したことを聞きます。
自身が進学するつもりだった学校の生徒に会うのが耐えられなかったとあり、こういった恥に思う気持ちは分かります。
他人が見れば大したことではなさそうに見えても本人にとっては愕然とする問題になっていることがあります。
「本を読めばどんな得があって、このさきの人生にどう役立つのか、たしかな答えをほしがるんだ」
河井が言っていたこの言葉は印象的でした。
これは理論だけに頼る人に見られる傾向で、「読んだことによって何を得られるか、得られないのなら読む必要はない」といった主張をすることがあります。
こんな風に考えていては感性は養えないと思います。
業務に限って言えばこの主張でも良いのだと思いますが、それを家の中にまで持ち込み「読んだことによって何を得られるか」などと言い出すと理論だけの無味乾燥な心の始まりだと思います。
私は本を読むことによって具体的な生きていく上で特になることは得られずとも、感性を豊かにできれば十分だと思います。
物語の最後、翔べなかったコマメがついに羽ばたいて翔んでいきます。
その姿は心のわだかまりから解放されてさらに心を豊かにした音和の姿と重なりました。
淡々とした情景描写の中にある普段見かけない表現が印象的な作品でした。
緑豊かでのどかな地域が舞台なのも印象的で、関東ローム層という学校の社会の授業以外ではなかなか聞かない言葉が出てきて興味深かったです。
読んでいるうちに自身が住んでいる地域の地層の特徴を知ることや人が話す言葉から映像を思い浮かべる面白さを感じ、やはり感性は大事にしていきたいと思いました。
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